横浜と塗装業の歴史

最終更新日:2023年9月10日  公開日:2023年7月28日

目次

塗装発祥の地、横浜

横浜には大きな港があり「日本三大貿易港」の1つに数えられます。横浜という町は、今も昔も日本の中でもいち早く外国文化が入ってくる土地です。そのため、横浜は様々な外国文化の発祥の地となっています。

そんな外国文化溢れる横浜ですが、実は私たちが営む塗装業も横浜が出発点です。近年では日本の戸建て住宅の外壁塗装は当たり前になっています。そもそも塗装というのは、保護したり、美しく見せたりするために行われるものです。その他にも他の家屋と区別するという効果があります。言わば1つ1つの戸建て住宅のアイデンティティーです。

一般的にはあまり知られていませんが、塗装は幕末に海外から入って来た文化です。そして、その塗装が日本で最初に行われた町こそ横浜なのです。

本記事では、なぜ横浜が日本の塗装業の出発点になったのか、そして塗装業は日本の中でどのように発展してきたのか、詳しくご紹介いたします。

日本における塗装のルーツ

日本ではどのように塗装文化が発展してきたのでしょうか。「塗装」というと、外壁塗装や車・プラモデルなどのイメージがあります。しかし、日本の歴史で最初に塗装が施されたのは、器や櫛などの日用品なのです。

約9,000年前、縄文時代

遡ること約9,000年前、日本は縄文時代でした。その頃のゴミ捨て場や墳墓の中から、漆を塗った日用品が発見されています。現在の漆は黒色と赤色ですが、縄文時代に使われていたのは、赤い漆でした。

血の色でもある赤色は魔除けの意味合いがあり、強い生命力の象徴でもあります。また、漆の効果としては塗ったものを保護・強化する効果があります。既に縄文時代に塗ったものを「保護する」という目的で使われていたのです。

約1,500年前、古墳時代

そこからさらに時代が下ること約1,500年前になると、墳墓の壁にも塗装が施されるようになりました。歴史の教科書にも必ず登場する「前方後円墳」などで知られる古墳時代です。

古墳の中には小さな部屋があり、そこに遺体を入れた棺が置かれます。その棺を置く部屋の壁に、赤青黄白緑などのカラフルな色で塗装が施されていました。そして、ただ単に塗られていただけではなく、円や四角形などの幾何学模様が描かれました。

現代では墓を塗装するということは少しイメージしにくいかもしれません。しかし、古墳時代の墓の塗装は、「悪いものが死者に近づかないようにする」、という魔除けの意味があったと考えられています。

やがて時と共に、幾何学模様だけでなく、人や家なども描かれるようになっていきました。定かではありませんが、想像するに亡くなった人が寂しくないように、生前の世界を描いたのでしょうか…。

約1,300年前、奈良時代

約1,300年前、平城京などで知られる奈良時代になると、いよいよ人家に対する塗装が見られるようになりました。

奈良時代では庶民と貴族で生活スタイルが違いがあります。庶民は農耕や商売で生計を立てる一方で、貴族は政治に関わり、庶民から取り立てる税によって生計を立てるようになったのです。その結果、専ら外で仕事をする庶民と社交が必要な貴族では住む家が異なるようになり、具体的には、貴族は家屋の軒や柱を赤く塗り、壁は漆喰で塗ることが普及しました。

当時は庶民と貴族では住む場所も異なっていたため、貴族が住む場所では、赤と白のコントラストの美しい家々が立ち並ぶ雅な景観を目にすることができるようになりました。

しかし、単に景観の美しさのためだけではなく、実際的な効果も伴っていました。赤く塗っていた材料は前述と同様に「漆」だと考えられています。壁で用いていた漆喰とともに防水・防腐効果があるので、美しい街並みを保ち続けるために塗装が推奨されていたと考えられます。漆も漆喰も高価な材料であるため、貴族だけが実現できた建築様式であると言えます。

仏教と塗装

貴族が政治をする社会になってから、もう1つ変化がありました。

この頃に「仏教」が中国から日本に伝えらたのです。仏教は災害や疫病などから国を守ってくれると信じられ、政治に関わる貴族たちが、こぞって信仰し始めました。

貴族たちは、平和を願ってお寺や仏像を建立しました。そのとき、美しく彩色し荘厳な雰囲気を演出するために、様々な塗装が施されたのです。奈良にある東大寺の大仏などは、金で塗られていたと言われています。仏像に対する塗装は、保護よりも美しさを極めるための塗装でした。

鎌倉時代~安土桃山時代

時代が下り、鎌倉時代では源頼朝が長年のライバルであった平家を破り、鎌倉幕府を開きました。鎌倉幕府は武家政権ですが、それまでとは違い、日本で初めて関西圏から神奈川県鎌倉市に政府を設けました(天皇は京都にいました)。

貴族の京都、武士の鎌倉、と対照的な2つの都ですが、どちらの都でも盛んに行われたことがあります。それは寺の建立です。京都では源氏と平家の争いによって数多の寺が焼けてしまいましたが、鎌倉にはそれまで寺がほとんどありませんでした。

有名な鎌倉五山もこの頃に建立されました。建立にあたっては大工が必要ですが、同時に仏像を造る彫師や寺や仏像を塗るための塗師が必要です。そこで沢山の職人が京都や中国の宋から鎌倉へやってきました。

塗師は塗装のエキスパートとして、寺や仏像の塗装だけでなく、食器や刀の鞘など武士の生活にまつわるところでも活躍しました。鎌倉の発展とともに塗装文化も一緒に発展したのです。

鎌倉幕府の力が衰え、北条氏が台頭すると政治の中心地は関西に移り、衰退した鎌倉の代わりに小田原を発展させます。北条氏は戦で焼けてしまった鎌倉の鶴岡八幡宮を再建するために、奈良・京都から職人を呼び寄せました。北条氏は鶴岡八幡宮を再建することで、仏様に守ってもらおうと考えたのです。

寺を再建するにはやはり様々な職人の手が必要になります。大工と一緒に塗師が関西から関東にやってきました。そして、彼らの一部が小田原に住みつき、職人町を形成しました。

江戸時代

しばらく争いの絶えなかった日本ですが、徳川家康が平定し、江戸に幕府を開きました。独裁的な政治は行わずに各地の武士を幕府に取り込んでいき、「藩」という形でまとめることで争いは落ち着き、比較的穏やかな時代を迎えました。

情勢が穏やかになることにより、文化が発展する土壌となりました。塗装文化としては、塗師の活躍の場が広がり、寺・仏像や器だけでなく、保護や美観向上の目的で板塀を塗ったり、防水の目的で傘を塗ったりするようになりました。塗る材料としては、漆や渋柿から取った汁が用いられていました。なお、小田原は元々漆の産地でしたが、住みついた塗師によって江戸時代に漆器が名産品となりました。

そして、江戸時代の終わり頃になると、いよいよ横浜が日本の塗装の歴史をけん引していくことになるのです。

開国とペンキ使用の初期の記録

約250年続いた江戸時代では鎖国政策をとり、諸外国と交流をほとんど持たず、日本は独自の文化で発展しました。ヨーロッパでは産業革命が起こり科学が大きな飛躍を遂げる中、貿易を受け入れない日本に業を煮やした米国は鎖国を解除すべく、浦賀にペリー率いる黒船を送り込みました。そして、日米間の貿易を開始し、西洋文化を受け入れる下地がいよいよ整ったのです。

浦賀に来航したペリー一味は日本の海を測量する任務を担っていました。貿易のためにどこまで船が入れるのか、海の深さを知る必要があるためです。その際に目印としてペンキが用いられました。

下記は本牧本郷村(現在の横浜市中区の北部)での出来事です。

富岡沖に滞在している外国の船より、小舟が十三人ばかりを乗せて本牧八王子の台場下にこぎ寄せ、測量をしているような様子だった。そしてそこに「白キもの」を塗り、文字のようなものを付けた様子で、それまではアメリカ国のしるしを立てていたけれども、塗り終えた後は白いしるしを立てた

『本牧表日記』(横浜市図書館発行)、『神奈川縣塗装史』(社団法人 神奈川県塗装協会発行)

これが、日本でペンキが使用されたごく初期の記録です。ちなみに「ペンキ」という言葉の語源は英語の「Paint(塗る)」です。

横浜の開港と塗装の発祥

日本の開国の中心地は「横浜」といっても過言ではありません。横浜港が開国の最初の貿易港の内の1つとなり、各国の領事館が置かれ後に外国人居留地が設けられたためです。神奈川は外国人と日本人の交流を最小限に抑えつつも貿易を進めるのにうってつけの場所でした。

本覚寺(横浜市神奈川区)

米国は横浜の「本覚寺」という寺を借り、仮の領事館を開きました。この本覚寺こそ、日本で最初にペンキが塗られた場所とされています。

米国人がなるべく故郷の建物に近づけようとして様々な色のペンキで塗ったようです。塗られた箇所は門や家屋だけではなく唐獅子などの彫刻物にも及びました。

この時のペンキの色は今でもなお、山門や鐘楼堂で見ることができます。こうした経緯があり、本覚寺は日本の塗装の発祥の地と認知されるようになりました。

浄瀧寺(横浜市神奈川区)

明治時代に発行された、「横浜開港側面史」という資料の中には、英国人による塗装に関するエピソードが記述されています。

米国は「浄瀧寺」に領事館を構えていました。この寺に3年勤めた岩崎治郎吉という人物が下記のように回想しています。

私はイギリス領事に使われることになって、三年間このお寺の中に居ましたが、……遂に御本尊も門番の家へお移りになる、本堂はまるでお茶屋の広間のようになってしまいました。門から家の中までアチコチ赤い漆で塗りたくって、赤煉瓦のように見せかけましたが、壁はともかく板張りの所を塗られては困ると言って、家の中だけはやめさせましたが、門はとうとう赤く塗ってしまいました。

『横浜開港側面史』(横浜貿易新報社発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳

家屋を塗装することに慣れていない日本人が、英国人の手により寺が塗装されていく一部始終を見て、慌てている様子がよく分かります。一方で英国人は、日本人が止めに入っても塗装を強行しています。元の状態の壁床では落ち着かなかったのでしょうか。

このとき塗られたものが本当に漆なのか、それとも英国人が持ち込んだ赤いペンキだったのかは定かではありません。しかし、開国間もない日本と西洋諸国文化の軋轢がよくわかるエピソードです。

外国人が見た日本の家屋

外国人達は日本に来た当初、日本の家屋や寺を使用していましたが、その後しばらくして西洋式の石造りの家屋を建てます。外国人の目には塗装をしない日本の木造建築がもの珍しく映ったようです。

下記はエドゥアルド・スエンソンというデンマーク人が残した記述です。スエンソンは、日本人が家屋の塗装をしないことを「自然の色を好む」と解釈しています。

家屋はふつう木造平屋建、湿気を避けて石の土台の上に築かれる。黒光りのする瓦で葺かれた屋根は中国の四阿(あずまや)を思わせて優美に弧を描いており、長く突き出した軒が紙の張ってある窓と戸を雨風から守っている。頑丈な木の壁のあるのは家の両横だけで、正面と裏には、木綿布のような白い紙の張られた左右に動かせる戸〔障子〕がついている。この紙は、どんなに貧しい家でも一年に何回か張り替えられる。これと木造の柱の自然な配色が、家がいつも新築であるかのような印象を与えている。あらゆる方面で発達している日本人の美的センスは、どんな種類の塗料、ラッカーよりも白木の自然な色を好むのである。新しい家は〔障子〕紙と白さを競い合い、古い家は樫の木のような艶を帯びて、こちらの美しさも捨てがたい。

『江戸幕末滞在記』(講談社発行)

また、これとは対照的に英国人のイザベラ・バードは塗装しないことを批判的な目で捉えました。随分辛辣な批評です。塗装のカラフルな色に慣れている西洋人にとっては日本の色味はとても地味に映ったようです。

日本には東洋的壮麗などというものはない。色彩と金箔は寺院に見られるだけだ。宮殿もあばら屋もおなじ灰色だ。建築の名に値するものはほとんど存在しない。富は仮に存在するにせよ、表には示されていない。鈍い青と茶と灰色がふつうの衣装の色だ。宝石は身につけない、あらゆるものが貧しく活気がない。単調なみすぼらしさが都市の特徴をなしている。

『逝きし世の面影』(平凡社発行)

バードほど批判的ではありませんが、米国人のタウンゼント・ハリスも日本人が家屋を塗装しないことについて触れています。ハリスは日米の外交に尽力した人物で、徳川幕府の将軍に何度も謁見しています。下記は、ハリスが江戸城で将軍に謁見したときに書き留めたと思われる記述です。ハリスは宮殿は壮麗であるという先入観から、「木の柱」が白木であることに特に注目しています。

(江戸城の)殿中のどこにも鍍金の装飾を見なかった。木の柱はすべて白木のままであった。火鉢と、私のために特に用意された椅子とテーブルのほかには、どの部屋にも調度の類が見当たらなかった。

『逝きし世の面影』(平凡社発行)

西洋と比べ、いかに日本が家屋に塗装しない文化であったかが窺い知れます。その文化が横浜居留地よりまさに塗り替えられていくことになるのです。

転機となった「横浜大火災」

1858年の開港以後、横浜は外国人と日本人が共存する町として発展を続けました。しかし、家屋は木造平屋建てが大多数という状況です。外国人の要望に応える形で日本人大工が急ピッチで洋風建築に取り掛かりました。

転機が訪れたのは1866年10月20日。末広町(現在の横浜市中区)の豚肉屋から朝8時に出火した火が、横浜の町中に広がりました。

風の強い日だったという不幸も重なり、日本人地区に火の手が拡大、さらに外国人地区にまで燃え広がりました。日本の火消し隊や外国人兵士達の尽力や風向きが変わったこともあり、幸い午後7時には鎮火にいたりました。

当時の日本人には豚肉を食べる習慣がないので、これは外国人が住む町ならではの事件でした。『神奈川縣塗装史』ではこの火事により、日本人居住地の3分の2と外国人居留地の5分の1を焼失したという記述があります。木造平屋建ての日本建築と西洋の建築の差を示す結果とも言えそうです。

エドゥアルド・スエンソンは次のように記述しています。

日本人区は多忙をきわめていた。……魔法にでもかけられたように次から次へと家が地面から生えて出た。……珍品ともども焼け落ちてしまった骨董通りの一方の端には、見たこともなかった立派な店が新たに建てられ、届いたばかりの品物があふれていた。町の半分が建て直され、一、二ヵ月の後に横浜は、形は昔のままだがすっかり若返った姿を見せてくれた。

『江戸幕末滞在記』(講談社発行)

この復興に伴い、石造りペンキ塗装の西洋建築物が、横浜の町に増えていくことになるのです。

神奈川における塗装事業の始まり

造船所の建築

1865年、徳川幕府が横須賀に造船所の建設を開始しました。造船所は「船の製造所」「船大工の詰め所」「塗師所」の3棟で構成されました。遠洋航海ができる西洋式の船には塗装が不可欠です。そのため、塗装する場所を併設したということです。

造船所の建設にあたってはフランソワ・レオンス・ヴェルニーを始めとした、フランス人技術者が複数名雇われました。日本人とフランス人が協力して工場群の建設に着手し、その最中に徳川幕府から明治政府へと時代が流れました。エドゥアルド・スエンソンが建設の様子を書き残しています。

多数の日本人労働者は造船所の裏の谷にひっそり隠れている大きな村に住んでいた。かれらは特別に任命された役人の厳しい監視のもとにあり、毎朝、鐘の音とともに仕事に呼び出された。(フランス人の)技師が指令を役人に与え、それがさらに日本人に伝えられる。そうすることで、二国の国民の間に生じ得る衝突が避けられるようにしてあった。ひょっとすると日本人の職人の方が西欧人より優秀かも知れなかった。日本のものよりはるかにすぐれている西欧の道具の使い方をすぐに覚え、機械類に関する知識も簡単に手に入れて、手順を教えてもその単なる真似事で満足せず、自力でどんどんその先の仕事をやってのける。日本人の職人がすでに何人も機械工場で立派な仕事をしていた。……もうすぐ、日本の造船所が自国のすぐれた建材、鉄や金属に富んだ資源を活用して海軍に軍需資材を充分に供給できるようになれば、外国から軍艦を購入する必要はなくなるだろう。

『江戸幕末滞在記』(講談社発行)

日本人とフランス人の協力する様子、また、日本人がいかに積極的に西洋の技術・知識を取り入れていったのかがよく分かります。

そして出来上がったのが「横須賀製鉄所」です。実質は造船所なのですが、船の材料には鉄を多く用いますので、製鉄所と名前が付いたようです。

ヴェルニーの足跡

横須賀製鉄所は造船と同時に技術者の養成施設でもありました。併設された学校はヴェルニーが校長を務め、フランスをロールモデルにした教育が行われました。多くの技術者を養成した横須賀製鉄所は明治に入ると100tの塗料を消費する工場へと発展を遂げました。

現在の横須賀にはヴェルニーの名を冠した公園があります。公園からは日本の造船産業や塗装業のさきがけとなった、横須賀製鉄所のドックを臨むことができます。

ヴェルニーは灯台の建設にも従事しました。外国の船が安全に日本に入港するために灯台は必要不可欠でした。ヴェルニーが設計し、日本で初となる西洋式灯台が横須賀の観音崎に建設されました。観音崎の灯台はすでに地震で倒壊してしまいましたが、同じくヴェルニーが関わった品川灯台が愛知県犬山市の明治村博物館に移設され今もなお展示されています。

その一部はコンクリートに替えられていますが、元々はレンガ造りの建築物です。レンガは横須賀製鉄所の建設に使用されたものと同じレンガです。灯台の表面には白いペンキが塗られ、塗装業の端緒の一部分をうかがうことができます。

明治時代における塗装の発展

発展する街並み

明治政府は、徳川幕府と比べ、外国との交流や技術・知識の習得に積極的でした。明治時代にはその雰囲気が、街並みや一般の人々の間に浸透していきます。

明治時代の横浜は、大火災から復興し外国人も増えていました。1867年には山手に外国人居留地が増設されたほどです。そのような中、横浜では外国人向けのホテルや銀行・商社・教会などの建物が、次々と建てられました。

これらの建物は、西洋式・石造りの二階建てで壁にはペンキが塗られました。中でも本町一丁目に建設された「町会所」は時計塔を備えた風格のある姿で、絵ハガキなどにも採用されるランドマークとなりました。この町会所は関東大震災で倒壊してしまいましたが、後に再建され現在では「横浜開港記念会館」になっています。その時計台は明治時代当初のランドマークとなった町会所と同じ威容を今でもなお誇っています。

鉄道

明治時代は日本に文明開化が起こります。生活の随所に西洋の影響が色濃く見受けられるようになるのです。塗装においては、家屋や船を塗装するようになったことが文明開化と言えるかもしれません。

しかし、「鉄道」はそれまでの日本には存在しない全く新しいものでした。ちなみに鉄道が初めて入ってきたのも横浜です。日本で最初の鉄道は横浜・新橋間に実験的に敷設されました。

日本には敷設の知識はありませんので、イギリス人の技術者が採用され汽車本体は海外から買い入れました。鉄道の敷設や汽車本体には塗装が欠かせません。レールに用いる枕木は鉄製のものではコストがかさみ過ぎるため、木製が採用されました。

ただし、生の木をそのまま使用すると雨に打たれて腐ってしまうので、防腐剤を塗装する必要があります。また、汽車は鉄製なのでペンキ塗装をしなければ錆びてしまいますし、客車は木製部分が多く、やはり保護塗装をしなければなりませんでした。

塗装は鉄道や汽車だけではなく、「神奈川縣塗装史」によると下記のような記述があります。

鉄物へは赤ペンキにて錆止め下塗りをし、青ペンキにて仕上げ、測量に用いる杭は白ペンキ三回塗り

神奈川縣塗装史

つまり、鉄道に関するすべてのものが、塗装されたと言っても過言ではありません。こうした塗装作業は日本人が行っていました。鉄道の導入にあたり日本の塗装技術は飛躍的に向上したと考えられます。

また、当時の歌舞伎絵に目を移せば、黒い機関車が赤く塗装された客車をけん引する様子が描かれています。色味に誇張があるようにも思いますが、当時の日本人の目にこの塗装された鉄道が華々しく映ったことを表しているのかもしれません。

なお、日本の鉄道の最初の駅の1つとなった「横浜駅」は実は現在の「桜木町駅」にあたります。開業当時の横浜駅は二階建ての西洋式建築でした。

乗合馬車

鉄道の他にも「馬車」が西洋文化から日本に流入しました。日本のそれまでの移動手段と言えば馬や駕籠くらいのものでした。実は馬車も塗装文化の発展に深く関わっています。

馬車は鉄道よりも少し早く横浜~東京間を結ぶ交通手段になりました。これは「乗合馬車」という名前で、現在のバスのような働きをしていました。ちなみに運営は民間業者です。

「横浜開港側面史」には乗合馬車を開業した人物の回想が記載されています。相当数の客足を見込めたことが窺える記述です。

横浜は段々に開けて来て交通もますます忙しくなって来たのに、当時の交通機関というと、海には帆掛船が櫓で押す船、陸には駕籠よりほかに乗る物はない、不便極まった有様でしたから、西洋人の乗っているような馬車をこしらえて、これを江戸横浜の間に用いたらよかろうと、六千円の資本で乗合馬車の開業を願い出したら早速に許可になりました。……馬車二十五台と馬六十頭とを買い入れて開業しました。横浜での発着所は吉田橋きわの、ちょうど今寄席の在る所で、間口八間奥行二十間という大きな建物を建てました。

『横浜開港側面史』(横浜貿易新報社発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳


『神奈川縣塗装史』によれば、横須賀周辺で乗合馬車を営業していたある業者は車体を黒く塗り、また別の業者は車体を赤く塗って、別々の会社であることをアピールしたようです。人々はこれを「黒馬車」「赤馬車」と呼んで、区別しました。

また別の業者は、路線別にペンキで彩色して一目でどの路線の馬車か分かるようにしたようです。塗装が会社の広告やブランディングにもなるなど、美観・保護という目的以外に使われ始めたことが分かります。この乗合馬車が行き交った道の一部が、現在では「馬車道」という名前になって残っています。

一時は一世を風靡した乗合馬車でしたが、鉄道や乗り合いバスの普及などによって、大正時代にかけて次第に姿を消していきました。

それで一時は儲けたが、その内鉄道が開けたのでやめてしまいました。

『横浜開港側面史』(横浜貿易新報社発行)

しかしながら、塗装で業者や路線を見分ける文化は、今でも私たちの生活の中に根付いています。

横浜中華街

横浜中華街が、塗装史と大きく関わっていることはあまり知られていないかもしれません。明治時代の初期、中国は清国という王朝でした。清国は日本よりも早く西欧文化と接触しており、既に西欧諸国の塗装・建築技術を持っていました。

そして清国人が先に述べたような西洋建築などと同時期に横浜へやってきたのです。その頃の日本では西洋風建築や塗装の技術・知識が不十分でしたので、比較的日本の近くにある清国人は歓迎されました。

ちなみに、中華街は外国人居留地に含まれ、清国人もそこに居を設けました。『神奈川縣塗装史』によれば明治時代の横浜には清国人の大工店が12軒、塗装店は10軒前後あったようです。当時の新聞にはペンキ塗り請負業の広告が清国人の名前で掲載され、日本人よりも高い賃金で仕事を得ていました。

この「ペンキ塗り請負業」は建物だけでなく横浜港に入港する船の内装を塗ったり、外部のさび止めを行ったりするような仕事でした。場合によっては船内の家具の塗装までも請け負っていたようです。

しかし、明治時代が進むにつれ日本人も塗装の知識・技術を獲得して熟練すると次第に外国人居留地から清国人の店は消えていきました。

その後、日清戦争や関東大震災を経て、昭和初期に今のような中華料理店が並ぶ街になったのです。

ペンキへの眼差し

明治時代の日本人はペンキをどのように捉えていたのでしょうか。1889年発行の『建築学階梯』に「ペンキ塗」という項があります。

ペンキの質佳良にして塗方適当にかつ鉄にも欠点なき時は甚だ錆止めに効あり

『建築学階梯』(米倉屋書店発行)

つまり「ペンキの質がよく、塗り方もちょうど良く、塗られる方の鉄が悪くない状態の時には、錆止めに効果がある」ということです。この後には熱い鉄に塗る際の注意点が温度や塗料の調合に至るまで細かく紹介されています。西洋塗装が入って来てまだ30年経つか経たない内に、知識が体系化されている様子が分かります。

また、同様に「ペンキ調合」の項には下記のような記述があります。

ペンキの調合を一定にすることはすこぶる難しい。例えば鉄に塗るものと木に塗るものとはおのずから差異がある。また多孔質のものには多量の油を要し、薄色仕上げには無色の油を用い、外用には沸騰油を用いるなど、大いに事情と場合とに関係する。

『建築学階梯』(米倉屋書店発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳

この後さらに、ペンキの材料ごとの調合法や色付きペンキにする場合の指示が記載されています。

また『寝言:珍紛閑噴』には「ペンキの効用」と題された文章があり、ペンキがより一般的になっていたことが窺い知れます。この本は比較的軽い読み物ですが、詳しい塗装知識のない一般人がどのようにペンキを見ていたか分かります。日本古来の塗料である漆と比較し、皮肉交じりに記述されているのが印象的です。

ペンキとは何だろうか。油を練ってつくる舶来のうるしである。青・黄・赤・白・黒はもちろん、その他の色であっても皆自由にこれを混ぜて塗れる。元来日本のうるしは容易に乾くとは言えないが、ペンキは塗ればたちまち乾くので、せっかちの用品であることは無類飛び切りな良品である。こういうことだから、このごろペンキは全国で流行している。

『寝言:珍紛閑噴』(自由閣発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳

「東京印象記」に見るペンキ屋

一方、その頃の塗装業者はどのように見られていたのでしょうか。『東京印象記』(金尾文淵堂発行)に「ペンキ色看板」という題で東京のペンキ屋の様子が記載されています。ペンキの色に文明開化の投影や塗装業者の店が増えている様子が記されています。

文明はあるいは、ペンキの色から、生まれるとでも言える。ペンキは都会に匂う、日に新たに咲く花であろう。……東京の街に、ペンキ塗請負所とか、各種看板書画応需とか、華やかなハイカラな、看板を軒に上げる、ペンキ師の家が大分増えた。家の周囲に、流行美人姿や、風景、花の類を、色彩豊かに綺麗に塗って、広告的に自家吹聴する家がある。……ペンキ師の、静かな家の内を覗くと、店の入り口一面に、黄、赤、白、黒や緑や、色々のペンキ油が、雑然として器物に冷ややかに燃え、辺りの床板に、落花のようこぼれ散っている。

『東京印象記』(金尾文淵堂発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳

「各種看板書画応需」という言い回しからは、華やかさが求められる広告にペンキが利用されていたことや、塗装業者の店構えでペンキの華やかさを演出として用いている様子も分かります。一方、「ペンキは都会に匂う」「東京の街に……ペンキ師の家が大分増えた」というくだりからは、ペンキは都会のおしゃれなもの・特筆すべきものであったことが推察できます。

横浜ペンキ職組合結成

横浜は塗装業者の組合の発祥の地でもあります。「横浜ペンキ職組合」という名称は1894年発行の『神奈川縣官民人名録』に見られると、『神奈川縣塗装史』に記載があります。

『神奈川縣塗装史』によれば、横浜ペンキ職組合は組合員106名で発足しています。全国でも早い組合の結成ですし、塗装業としては全国初のようです。そして『神奈川縣塗装史』には横浜にやって来た、あるいは横浜から飛び立っていった塗装者について、細かく記されています。

ある人は清国人の元で馬車塗装の請負業者の所で修業したのちに東京で塗装業を始めています。そして、またある人は横須賀製鉄所で塗装工となったのちに鉄道局でペンキ塗りとして活躍しています。

塗装組合結成の動きは、明治時代の終わりから大正時代にかけて、横浜から神奈川全域へ、さらに全国へと広がります。

大正時代における塗装

神奈川県各地の塗装組合の機運

塗装業界が成長するにつれて、次第に他県各地で「組合」「同盟」が発足するようになります。『神奈川縣塗装史』に地域ごとの組合の発足の様子が記載されています。

横浜ペンキ塗請負業組合

まず、横浜では「横浜ペンキ職組合」が、1920年に「横浜ペンキ塗請負業組合」と名称変更しています。個人単位の組合から会社・事業主単位で組む形に変化しました。

横須賀ペンキ塗請負業組合

横須賀では、1918年に25名が参加した「横須賀ペンキ塗請負業組合」が発足しました。横浜では建築塗装が発達しましたが、横須賀では船の塗装が発達しました。大正時代から昭和にかけて、西洋を中心に度重なる戦争や領土拡大の風潮があり、世界的な建艦ブームが起きたため、横須賀は造船の土地として発展しました。『神奈川縣塗装史』によれば、高まる需要に応じる塗装工が他の土地から移住してきて、横須賀の塗装業はさらに充実したようです。

小田原塗工組合

一方で小田原では、1921年に「小田原塗工組合」が発足しています。小田原は、元々漆塗りの漆器が名産の土地で日本式塗装の職人は大勢いました。しかし、ペンキを扱う西洋塗装は横浜・横須賀からはひと足遅れ、組合の結成時期にも影響が見受けられます。とはいえ、小田原は明治中期に外国人や富裕層の避暑地となり、洋風建築の建物が多く建てられました。

神奈川縣ペンキ塗請負業組合

このような各地の塗装関連の組合結成と前後して、1921年には「神奈川縣ペンキ塗請負業組合」が発足しました。組合員数は1927年時点で122名となっています。この「神奈川縣ペンキ塗請負業組合」は、各地に支部を置き神奈川県全体の塗装業を総括しました。本組合は、大正・昭和・平成・令和と時代が移り変わる中でも組合名を変更しながらも存続し、現在まで連綿と繋がっています。

東京大正博覧会に見る和洋折衷の塗装

1914年(大正3年)に東京・上野で「東京大正博覧会」が開催されました。日本の文化や技術を紹介する博覧会です。この東京大正博覧会では、日本で初めてエスカレーターが設置されたこともあり、大変な人気を博しました。

『東京大正博覧会観覧案内』という冊子の序文には、この博覧会の趣旨が下記のように記されています。西洋文化の流入と発展について、本博覧会が1つの総まとめだと述べられています。

この博覧会は……言うまでもなく殖産興業の進歩開発を促すものであります……。また一面から言えば、我が国開闢以来にない長速の進歩発展を促したいわゆる開国以来六十年間の国家産業が、いかなる順序によって、いかなる程度まで進んで来たかを一目瞭然たらしむるもので、いわば新日本文明の縮図と言ってもよいのであります。

『東京大正博覧会観覧案内』(文洋社発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳

『東京大正博覧会審査報告』の中には塗料に関する記述があります。「ペイント」(=ペンキ)「ヴァ―ニス」(=ワニス)の他、「船底塗料」「木材防腐剤」「防錆油」などが出品されました。

産地は東京・神奈川・広島のほか、当時日本の領土であった満州です。全体の出品数は80点、神奈川県の出品数は東京の66点に次いで2番目に多い10点となっています。神奈川県からの出品の中には自社製の「船底塗料」が出品されており造船業の発展の形跡がうかがえます。

また『東京大正博覧会審査報告』の審査官は、ペンキの材料となる「酸化亜鉛」は、もし他国と戦争になった際には入手しづらくなるので、日本でも生産できる「鉛白」を使用したペンキを作らなければならない、そしていずれはペンキの輸入をなくし、自国生産すべきだと述べています。実際に日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦がありましたので、戦争の影が濃い記述と言えます。

東京大正博覧会の会場は上野公園に複数に分けて建築されました。建物の意匠には、ルネッサンスやセセッションといったヨーロッパ風の建築様式が用いられましたが、日本人が設計したためか、東洋風のエッセンスも取り入れられました。壁面の塗装については下記のような記述があります。塗料を使って日本の色を再現していることが分かります。

『朝日に匂う山桜花』による我が国民性を表象する目的で、ごく淡白な桜色で全体を統一し、屋根はこれに対する葉桜色で、日本式色彩が明瞭に示されて…

東京大正博覧会観覧案内

大正時代の職業紹介に見る「ペンキ塗工」

明治時代には塗装業が次第に一般化しましたが、大正時代ではどうだったのでしょうか。当時の日本は、1919年に終結した第一次世界大戦後の不景気に見舞われていました。1923年発行の『現代生活職業之研究(一名最新職業案内)』には87種の職業の内容が細かく紹介されています。男性向けの職業だけでなく「幼稚園保母」「女子事務員」など、女性の仕事も紹介されているところに大正時代らしさを感じます。
同書の「ペンキ塗工」という項目には製本工・煉瓦職などと一緒に「職工及び職人の部」に分類されています。また、「ペンキ塗工」には需要があり、かつ今後も仕事があり続けるであろうという興味深い記述があります。

安全な職業の一つにペンキ塗職がある。今後、需要の多くなることは確実である。技術に確信があって忠実に業務に努めさえすれば、閑散なことなどは断じてない。

『現代生活職業之研究(一名最新職業案内)』(東京職業研究所発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳

続く文章ではどのように「ペンキ塗工」になるのかが記述されています。職人仕事であり、まずは親方の元で研鑽を積み、技術を学ぶのが一般的であるものの、塗装仕事の需要が多いという実情があり、契約期間満了まで勤め上げなくとも、独立して自分の店を持つケースが多かったようです。

あえて年期制度が習慣的に実行されているというのではないが、三年なり五年なり、相当に年期の約束で入るのが多い。……技術が次第に進むに伴って、手当も余分に増加するが、近来は年期を完全に勤め終わる者は実に少数で、中途から一人前の職工として独立する者が多い。この現象はいかに職工の需要が盛んであるかを証するものである。

『現代生活職業之研究(一名最新職業案内)』(東京職業研究所発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳

その他に下記のような記述もあります。

ペンキ塗職で取り扱う仕事は、ペンキ塗、ラック塗、ニス塗、シブ塗、漆塗(これは為さざるものもある)アク洗い等であるが、ペンキで利益のあるのは看板などを塗るよりも家屋、家屋は新築家屋よりも塗替え家屋に多い。

『現代生活職業之研究(一名最新職業案内)』(東京職業研究所発行)※現代仮名遣いに直し一部を意訳

「ペンキ塗」と一口に言っても、様々な塗装業を請け負っていることが分かります。また、「新築家屋よりも塗替え家屋」が多いという記載は現在にも通じています。この時点で、既に家を塗装するのは当たり前になっており、経年劣化などによる塗り替えも多数発生していたことが読み取れます。

関東大震災の影響

1923年9月1日の正午近くに関東一円を大地震が襲いました。強い風の吹く日、昼食の支度の時間帯であったことから町のあちこちで火事が起き、それが燃え広がって大規模な災害となりました。記録されている日本の災害では、2011年の東日本大震災以前のものとしては最大規模であったとも言われています。震源地は相模湾でした。

『関東大震大火全史』に、当時の被害の様子が記述されています。横浜市では無数の家屋が倒壊し、銀行や市役所など、石造りと思われる建物は残りましたが、やがてそれすらも燃え広がった炎に呑み込まれ、一面が焼け野原となりました。横須賀では建物の倒壊こそ少なかったものの、電話が使えなくなり、鎌倉の大仏は「一寸ほど後退」したと記録されています。小田原では清水が60センチもの高さで噴き出し、川は濁って黄色くなったと報告されています。横浜の被害状況は、特に酷いものでした。

『関東大震災ト木材及薪炭』という農商務省山林局が作成した冊子には、東京の罹災人口が59%であるのに対し、横浜は実に81%が罹災したと記録されています。同書には東京で倒壊した家屋に替えてバラックを建てて急場をしのいだ、とありますが、横浜は海岸も鉄道も破壊されて、建築材料の搬入さえ難しかったとあります。洋風建築を誇った銀行や商店の再建築も進まず、空き地があちこちで見られたようです。

このような悲惨な状況であったことから、多くの人々が横浜から他の土地へ移っていきました。横浜で育った塗装業者もその中に含まれていたと考えられます。視点を変えてみれば、横浜の塗装技術が全国へ広がる契機となったとも言えますが、その代償はあまりに大きいものでした。震災の翌年から翌々年にかけて国や県の主導のもと、横浜では計画的な復興が試みられました。鉄道が復旧し大桟橋を持つ横浜港が整備され、市内には二千戸の家が建てられました。こうした復興作業の中、様々な分野で塗装の需要が再び高まり、横浜の塗装業は再興に向かいました。

昭和における塗装

全国に広がる塗装業

関東大震災で壊滅的な被害を受けた横浜ですが、復興は順調に進み、1929年(昭和4年)には復興は完成したと宣言され、元の活気を取り戻していました。そして、1935年(昭和10年)に「復興記念横浜大博覧会」が開催されました。この博覧会は、横浜開港から昭和に至るまでの写真やジオラマなどで展示したもので、これまでにご紹介した洋風建築や鉄道なども、横浜を象徴するものとして展示されました。

この「復興記念横浜大博覧会」の開催と時を同じくして、「全国塗装業総合大会」が開催されました。史料が少ないのですが『神奈川縣塗装史』に掲載されている新聞等に少し情報があります。全国塗装業総合大会の1929年の開催は第9回と銘打たれており、「来年は第十回記念に大阪で開催」という文言が記載されています。おそらく継続的に全国各地で開催されていたものと推察できます。その目的は「和親協調」とありますので、親睦会のような性格を持ったものだったことが窺えます。

第9回の開催地は横浜で三日間に渡って開催されました。神奈川県塗装業同盟会が音頭を取ったようです。参加者は神奈川県からのみならず、東京や大阪、仙台、鹿児島など、全国各地から集まりました。中には当時日本の領土であった中国の大連からの参加者もおり、その影響力には目を見張るものがあります。夜には総会として組合報告や規約改正などが行われていることから、全国的な組合としての性格を帯びていたのかもしれません。横浜で発祥した塗装業ですが、約50年の間に全国へ広がり、大災害をも乗り越え、職人たちが同じ横浜で一堂に会したこの大会は、日本塗装史の1つのマイルストーンだと言えます。

戦時下における塗装業

1937年(昭和12年)、中国の盧溝橋で日本軍と中国軍が軍事衝突しました。これが日中戦争が始まりで、約8年に渡って日本は常時戦争状態となります。日中戦争が始まった翌年の1938年、その大元となる「国家総動員法」が制定されました。これは物資の生産・流通や価格、会社や組合の立ち上げや合併にいたるまで、国がコントロールできるという法律でした。

塗装することで対象物は水分や塩分から保護されますし、塗装によって自軍であることを明示しておかないと同士討ちになる危険があるため、軍事的にも塗装は重要事項でした。そして、塗装は戦時下では重要な役割を持つため、他の産業よりもさらに厳しく統制される宿命を持っていました。米国と開戦した翌年の1942年には、国家総動員法から発展した「企業整備令」が制定されました。産業の再編成として企業に対して国の方針に基づいた経済活動を行わせ、場合によっては国に協力させることを目的としたものです。商工経営研究会が作成した『企業整備令の解説』という冊子には、この法律に関するQ&Aが掲載されています。その中にゴム・石鹸・織物などと並んで塗料工業についても記載されています。その最初の行は下記のように始まっています。

漆を除く塗料全般に亘って一定規模に達する合同体を結成せしめ之に原則として総合生産をなさしめ生産を最優秀工場に集中して極力経営の合理化を図ると共に生産計量の設定、製品の規格統一、統制団体の設置をして整備の万全を期せんとして……協力を求めることとなったのであります。

『企業整備令の解説』(大同書院発行)

漆以外の塗料すべてを、いかに合理的に生産するかを目的として、国で一括管理したいという姿勢が見えます。ここでいう塗料とは、下記のように大別されています。

  • ペイント及塗料油
  • 油性ワニス及エナメル
  • ラッカー類
  • 酒精ワニス
  • 特殊塗料
『企業整備令の解説』(大同書院発行)

これらを「総合生産」できる塗料工場が望ましく、その水準は生産機械や保管タンクの規模などで示されています。この水準に達しない場合は「原則として原材料の配給を為さざるものとす」とあり、実質的に生産停止に追い込まれるということです。それを防ぐために企業同士で合併し国の求める水準を満たす必要があり、結果的には国が求める「総合生産」を実行せざるを得ません。ただし、「航空機用塗料工業組合加入者」や「航空機用塗料生産者」は、これらの制約を受けないことが明記され特別扱いされており、いかに航空機の生産に注力していたかが窺えます。

その一方で、「企業整備の実施後現在の塗料工場及びその所属各工業組合を解散し生産並びに配給の統制を目的とする統制団体を設置せしむ」とあり、塗料の生産そのものが国家機構に組み込まれていることが示されています。

このように塗料の生産が国にコントロールされた影響で塗装業の仕事は減少しました。「神奈川縣ペンキ塗請負業組合」は、1942年に「神奈川県塗装工業組合」に、そして1944年に「神奈川縣塗装統制組合」と改組しました。『企業整備令の解説』に示されている「各工業組合を解散し……統制団体を設置せしむ」が実行されているということです。塗料は軍に廻されて配給が来ないという証言が『神奈川縣塗装史』に記載されています。

資材の配給は途絶えてほとんど届かず、わずかに塗装工事に直接関係のない日用品が組合に配給された

神奈川縣塗装史

唯一、民間に奨励された塗装が家屋の「防空塗装」でした。1942年4月、米軍による東京への空襲を皮切りに、1945年の終戦まで、日本全国の町が飛行機による爆撃や焼夷弾の雨に繰り返し見舞われました。日本政府は「防空」と称し各家庭における防空壕を設置することや、隣近所での消防団を組織することと共に、工場や学校などの建物の白い壁を迷彩色に塗り替えることを命じました。白い壁は空から見ると目立ち、爆撃機の目標になりやすいためです。西洋文化の象徴であった白いペンキ塗りの壁が、国防色と称された迷彩色で塗りつぶされていく様は皮肉な光景だったことでしょう。

そのような涙ぐましい努力にもかかわらず、神奈川県は東京に近いことや横須賀などに軍需工場があることから、横浜は25回、神奈川県全体では52回に及ぶ空襲を受け、町は焦土と化しました。1945年5月の横浜大空襲では、市街地の実に42%が被災したと言われています。そして1945年8月15日に終戦を迎えるとともに、塗装業界は新しい一歩を踏み出すことになりました。

戦後の塗装業

1945年8月15日、日本は無条件降伏し太平洋戦争が終結しました。日本は米国の統治下に置かれ、戦時中に出来た組合などは、すべて解散するように命じられました。そのため「神奈川縣塗装統制組合」も解散となりました。当初、米国を始めとする太平洋戦争の戦勝国は日本を復興できないほど弱体化させる目論見でした。具体的には研究施設や工場をすべて解体させて、日本を農業や漁業などの一次産業のみの国にするつもりだったのです。しかし、日本が地理的にソ連や中国に近いことから、米国は日本を共産主義の広がりを食い止める拠点と位置付けて、日本の経済的な復興を後押しすることにしました。

そこで1948年、米国は正式に日本の占領目的を「産業復興」として、米国式の自由経済の仕組みを作り上げることになります。同1948年に「神奈川県塗装工業組合」が発足しました。これは「神奈川縣ペンキ塗請負業組合」の流れを汲む組織です。戦時中の体制を乗り越え、再び自由経済が戻って来た証左となる出来事でした。一方で物資の欠乏が深刻な問題でした。日々の衣類や食糧さえ手に入れるのが困難になっていました。最低限の生活必需品が国から配給されていましたが、滞ったり量が足りないこともしばしばでした。生活必需品ではない塗装材料の入手のしづらさはなおさらでした。『神奈川縣塗装史』には下記のように記載されています。

材料はクーポン制で塗装工事に材料がついて切取式切符(クーポン制)を渡すというシステムで、自由に使える塗料といえば、防腐剤とコールタール位であったので、仕事の出たアメリカ軍工事以外は闇ルートで高い材料を見つけていた

『神奈川縣塗装史』(社団法人 神奈川県塗装協会発行)

戦後間もない時期の苦しさが垣間見えます。しかし、経済復興が進むにつれ物資は次第に潤沢となり塗料のクーポン制も廃止され、自由に手に入るようになりました。加えて、塗装は占領軍としても家屋や船、飛行機などに欠かせないものであったことから、その需要は多く、塗装業界の復興は軌道に乗りました。さらに1950年、朝鮮戦争が勃発すると米軍の需要が増えたことにより日本経済全体が活気を帯び、高度経済成長に繋がっていきました。

昭和後期~現代の塗装業

戦後間もない1948年に発足した「神奈川県塗装工業組合」は、1958年に「神奈川県塗装組合」と名称変更されました。「もはや戦後ではない」とうたわれた1956年から2年後のことです。

この「神奈川県塗装組合」の組合員により、横浜市中区元町公園に「我国塗装発祥之地記念碑」が建立されました。元町公園と言えば、元々は外国人居留地として拓かれた土地で、現在でも横浜外国人墓地に隣接し横浜中華街へも歩いて行ける場所です。日本の塗装業の発展に貢献した土地であり、塗装発祥の地に相応しい場所です。『神奈川縣塗装史』によれば、記念碑の建立にあたっては盛大な式典が挙行されたとあります。

日本全体では1964年の東京オリンピックに向けてインフラ・施設が整備されました。東海道新幹線が開通し、高速道路や東京国際空港が整備され、ホテルや旅館などの宿泊施設が次々に建築されました。これらのインフラや施設に塗装は欠かせません。新幹線の車両やレール、道路の標識や建物の外壁・内壁など、様々な場面で塗装業が活躍したことが容易に推察できます。中でも、青と白の塗装が施された東海道新幹線の車両が、同じ青と白の姿でそびえる富士山をバックに走る様子は、今も日本を象徴する景色の1つとなっています。

日本のインフラ・施設が整備されていくのと同時に、塗装業界では更なる発展と後継者の育成を目指した、新しい制度が施行されていきます。1962年には、国家試験である「建築塗装技能検定」が実施されました。『神奈川縣塗装史』には、神奈川県ではこの検定の合格者の増やすため、講習会や研修会、コンクールなどを行ったとあります。また1967年には「神奈川県塗装技能共同職業訓練所」が開設され、後継者の育成に注力しました。この訓練所は現在では「神奈川県塗装技能訓練校」と名称変更し、県の認定職業訓練校となっています。『神奈川県塗装史』によれば、この訓練校は日本国内の研究交流の場となっているほか、海外からも視察を受け入れ、塗装発祥の地にある学校としての役割を果たしている、と記載されています。

1970年に「神奈川県塗装組合」は「社団法人神奈川県塗装協会」と名称変更して社団法人化しました。本協会は令和の現在でも神奈川県下の塗装業者をとりまとめ、塗装技能・技術の啓蒙普及事業や、技能検査検定支援事業などに力を注いでいます。

そして1978年5月、横浜の本覚寺境内に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されました。前述した、江戸時代末期の日本開国時に米国の領事館となったお寺です。日本の塗装業界に関わって来た全ての人の慰霊碑が、100年以上の時を超え日本家屋が最初に塗装された地に建立されたことは、まるで1つの壮大な物語の完結といった印象です。

しかし、ご存じの通り塗装業界はこれで終わりではありません。これまで見てきた様に艱難辛苦に見舞われようとも、これからも歴史を塗り替えながら発展し続けるでしょう。

弊社、株式会社塗装職人の歩み

最後に、弊社「株式会社塗装職人」の歴史についてご紹介いたします。

昭和が終わり、平成に入って間もない1991年3月に株式会社塗装職人の社長である曽根省吾は前身である「有限会社曽根住設」を設立しました。当時はバス・キッチンの施工や外壁塗装工事の下請けとして仕事をしていましたが、大手会社の下請け仕事は曽根の理想から大きくかけ離れたものでした。それは金額という形でもっとも分かりやすく表れました。

例えば、依頼人が支払った施工費用が100万円だとしたら、下請け会社に支払われるのは40万円程度です。この半額に満たない金額の中に、使用する塗料や塗装するまでの足場や養生などの工事にかかる代金すべてが含まれていました。また、施工期間についても大手会社から無茶な依頼をされました。本来10日は必要なところ1週間しか与えられなかったこともありました。これでは良い工事ができるはずはありません。ただ決められた金額、決められた期間の中で仕事をするだけで、塗装本来の保護や美観などからはかけ離れた結果となってしまいます。

大手会社の取り分である60万円という金額の中に直接塗装に関わる部分はありません。それらは大手会社のCMや広告費などに使われる費用に変わりました。曽根は自身が取引する会社だけが特に待遇が悪いのかもしれないとも考えましたが、同業者に聞いても状況は同じでした。依頼人が支払った費用の内、3分の1も塗装業者に渡っていないことさえ多かったのです。

職人たちは少ない金額でできるだけ良い仕事を続けるあまり疲弊しました。不幸なことに事故に発展したこともあります。職人がそれだけ懸命に働いたとしても下請けに支払われる金額では理想的な塗装はできません。使用できる塗料や施行期間が本来の必要量から大きくかけ離れているからです。また、下請けとなる職人だけでなく、依頼人であるお客様にとっても見えにくい損失となりました。

曽根は、優れた職人が直接依頼人の要望を聞いて仕事内容としても金額の面でも双方が本当に納得できるようにするにはどうすべきなのかをひたすら考えました。そして、依頼人である一般の人々にもっと塗装のことをよく知ってもらうことが一番の近道であること、それを曽根自らが率先して発信することを決意しました。

その手始めに、2002年に曽根はまず4冊組みの外壁塗装のガイドブックを刊行しました。その2年後の2004年、曽根は既存の会社を現在の「株式会社塗装職人」に組織変更しました。これは曽根が理想として思い描いた依頼人との直接取引を実現するための塗装会社です。しかし当初はその有用性が認識されず、設立したばかりの会社ではあまり信頼もなく収入が全くない月さえありました。

そこで「株式会社塗装職人」のwebサイトを開設し、塗装についての知識をインターネット上で発信し始めました。2008年には質問サービス「Yahoo!知恵袋」にて、塗装専門家として質問に回答することも始めました。Yahoo!知恵袋では細やかな回答に対して評価をいただき、2023年現在ではベストアンサー率61%を保持しています。こうして日本全国に向けて塗装についての情報発信をする一方、地域に向けては、ニュースレター『塗装だより』を発行、親子参加型の塗装体験プロジェクトを企画・実施したりなど、オフラインの取り組みも積極的に行ってきました。日本全国に向けて塗装の知識を発信していきながら、同時に会社の地場である神奈川県全域に向けて特にアピールすることで、理想の仕事ができる環境を少しずつ整えていったのです。そうした地道な努力が実を結び、会社の設立当初はあまり多くなかった塗装依頼も徐々に増え、2017年には東京世田谷区に東京支店を開設しました。

「株式会社塗装職人」の強みは情報発信に留まりません。株式会社塗装職人には2023年現在7名の塗装指導員が現場で施工に携わり、塗装工事を行いながら後輩の育成に尽力しています。「職人」には寡黙で目の前の仕事に集中するイメージがあるものです。しかし「株式会社塗装職人」では、丁寧・綿密な職人としての塗装工事は勿論のこと、依頼人とのコミュニケーションを大切にしています。依頼人の要望をよく理解し、疑問を解消したうえで施工しなければ、どんなに熟練した職人であっても依頼人が本当に希望している塗装を施すことは不可能です。

そしてこういった取り組みは、これまでご紹介してきたように、長い歴史を持つ塗装業を神奈川県で活動する塗装職人として、塗装史の次の1ページに繋がるバトンを渡していくことでもあります。「社長が職人の業者は現場に魂が宿る」をモットーに「株式会社塗装職人」はこれからも、塗装職人として仕事を請け負い、そして次世代の塗装職人を育てていきます。

参考文献一覧

  • 『建築学階梯 巻之下』(米倉屋書店・1889年)/中村達太郎
  • 『寝言:珍紛閑噴』(自由閣・1889年)/痩々亭骨皮道人
  • 『日本全国商工人名録』(日本全国商工人名録発行所・1892年)
  • 『横浜開港側面史』(横浜貿易新報社・1909年)
  • 『東京印象記』(金尾文淵堂・1911年)/児玉花外
  • 『東京大正博覧会観覧案内』(文洋社・1914年)/東京大正博覧会案内編輯局
  • 『東京大正博覧会審査報告 3巻』(東京府・1916年)
  • 『現代生活職業の研究:一名・最新職業案内』(東京職業研究所・1923年)
  • 『関東大震大火全史』(帝都罹災児童救援会・1924年)
  • 『関東大震災ト木材及薪炭』(帝国森林会・1924年)/農商務省山林局
  • 『復興記念横浜大博覧会開港歴史館記念帖』(横浜市教育課・1935年)
  • 『企業整備令の解説』(大同書院・1942年)/商工経営研究会
  • 『古都発掘』(岩波書店・1996年)/田中琢
  • 『神奈川縣塗装史』(柏苑社・2000年)/社団法人神奈川県塗装協会
  • 『日本の色を染める』(岩波書店・2002年)/吉岡幸雄
  • 『江戸幕末滞在記』(講談社・2003年)/E.スエンソン、【訳】長島要一
  • 『逝きし世の面影』(平凡社・2005年)/渡辺京二
  • 『前方後円墳の世界』(岩波書店・2010年)/広瀬和夫
  • 『近代日本のルーツ 横須賀製鉄所』(横須賀市政策推進部文化振興課・2014年)/山本昭一
  • 『縄文探検隊の記録』(集英社インターナショナル・2018年)/夢枕獏、岡村道雄 
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